昭和44年10月19日 朝の御理解
御理解第47節「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん」
「祈れ薬れにすればおかげも早いが、薬れ祈れにするからおかげにならん」。祈れ薬れと仰っておりますから、これはまぁ病気をした時という風に感じられますですね。病気をする時に、薬を頂くと。薬を頂いてはならんというのではなくて、やはり、えー、薬、例えば一服でも、天地の親神様のお恵みを、えー、から放れておるものはありません。
ですから、えー、んー、やはり祈って、そしてそれを頂くというようにすればおかげも早いとこう言うておられる。「薬れ、祈れにするからおかげにならん」。
祈ることを後からにして、まぁお薬を例えば先頂いて、お医者さんにまぁかかって、そして神様にお願をするようなことでは、んー、おかげにならんとこういう。このおかげにならんというここんところが、私は何時も疑問になるところなんですけれども、それを信心がなかっても、いや信心のあって、薬を先に頂いたり、または、あー、お取り次ぎを頂かずに医者に行ったりしても、やはりあの、病気なら病気が全快しておりますよね。
だからここではね、そういう意味でのおかげじゃないのです。ただ病気が良くなるという意味もありましょうけれどもです、良くなるとか良くならないとかというような意味のおかげじゃない。これは非常に深い意味があると思うんです。
夕べお月次祭の、始まるちょっと前に久富勇さんがお参りしてみえてから、今、本家の方の兄達も皆でお参りさせて頂こうとしよりましたけれども、というて、お届けをされます。いよいよ明日がご大祭ですから、北九州の方に縁付いとります、その娘さんを、わざわざ呼びにきましてね、お祭りを頂か(にゃならん?)。親子連れ、だからあちらの、その、国雄さんが呼びにいきました。
それでその、二人、親子連れ、呼んで。そして、さぁ今日はお月次祭じゃけんで、さぁ皆で参るぞというわけなんですけれども。んー、その(おろしばっかりのおつゆ?)がですね、何かここの辺から、こうかかってですね、どうしたのですか。その中にしりもち付いたわけでもないでしょうけれども、まぁ大変なことだったらしいんですよ。
それでもう、その、(わただ?)に、いうなら、繁雄さんも今日怪我しておられます。何かこうかなづちで、車をたたきよってから、外れてから自分の手を叩いておられる。それこそ目の前が真っ黒うなりました、というておられますが。
あの、この、叩いた、いうならその、こう、指がこうやって取れたぐらい、取れるぐらいにひどく叩いておられる。で、それでこう(軍手は、あのしておられんもん?)ですから、全然その、左の方の手が使われんから、やっぱ着物を脱がせたりするのに、暇がかかったらしいですけどね、もう直ぐその後にお神酒さんを、(もしって泣いたでしょう?)。そこにお神酒さんをいっぱい拭いてですね。して御神米をぴたっと、あのつけたままで夕べは参って来ております。
ほりゃやけどする、といやですね、もう例えばちょっとこう熱い、湯気がかかったっちゃ、一時ばかりひらひらするぐらいにあるでしょうが。ましてこの、やけどというのは、あー、大変ひらめきが強い、あるんですけれどね。
私はお届けをしたこと、それから、30分(と上には?)その皆さんで参ってきてるんです。私はご説教中にも、ここあっちこっちこう見よって、歩いて、歩きよりますもん、(ほんて?)それから、お祭りをすんだら、あの長い廊下を走って、ばんばんあんた走って後ろからお母さんが走って追いかけてきよる、それがなんとその、「よしたろう」君です。
「よしたろう」という名前を頂いておる。どうなに考えたって、そのそこに私はおかげを、神様のご都合であると同時に、神様のおかげを受けておるなと思わにゃおられんのですよ。ならそりゃまぁ皆も、それをまぁ言っておりましたが。
えー、これなんかは、もう別にわざわざ、あーその、ここに電話をかけれたわけでもなからなければ、直ぐお願に来られたり、もうとっさのことですからね。とっさのことですから、その時に例えば、さぁ医者に早う連れていけ、といわずにですね、その、ごし、お神酒と御神米を、さぁ付けて頂けというてその、付けられたといったような事がです、おかげが早いぞと仰る事が、ここを見て分かるですね。
( ? )随分となら、大きな怪我ですから、痛んだろうと思うけれども。もうそうしたら、直ぐお神酒を吹いて、御神米をこう頂いて、それ、それ、そのままだそうです、もう今は。
(本当なら、あんたそりゃ?)もううずき足しなきゃならんのでしょうけれどもね、(いいよいその、皆でこうちょう?)を頂きよりましたから、繁雄さんあんたも頂きなさい。この(こうちょう?)の中にウイスキーが(ひとたま?)入っておったんです。でそれを飲まれてからこう、体に(いがい?)持ったわけですね。
まぁ酒の弱い人というのは、匂いきいただけでもやっぱり、ウイスキーのほんな匂いだけなようなもんで、体にこれを【プッ】、体にいっぱいその(ね、ねつ?)してきたわけで、手が、まぁいきなり痛むというておられましたけれども、大体は頂きさえしなきゃおかげを受けておられる。
これなんかでもやっぱりそうです。ね、いわゆる祈りを先にされた。ね、そこんところに私は、あの、なるほどまだ、(こちら不自由に?)してはおられますけれども。なら「きし?」君の場合、「よしたろう」君の場合でもそうです。
(?)どんなに考えてもやっぱり、いうならきれいに走って歩いたり、こうしておるところを見ると、( ? )に違いはない。ほどしに、やはりおかげを頂いておるということは、ならもうそこで傷が治ってしまってるのじゃないけれどもです、やはりおかげが早いぞ、と仰るのは、そういう私はあり方が、祈れ薬れという事だと思うんですね。
ところが「薬れ祈れにするから、おかげにならん」ということは、ここではおかげが遅いという意味でしょうかね。医者にかかりゃ早く治るごたるけれども、ここに一つ、もう一つ分からなきゃならんことはですね。なるほど薬一服だって天地の親神様のお恵みのものですけれどもね、それは、とりわけその、あの、近代医学というですかね。まぁその医学の薬を、集めて出来たお薬なんかというのは、非常に効きますけれども、副作用が多いですね。
えー、「しだこうたろう?」先生が書いておられます、今度あの御直会に頂きます本の中にも、もうそれと同じような意味の事が書いてありますですね。最近段々、いわゆる科学製品ですかね、ビニールとか、プラスチックといったような類な物が沢山出来るでしょう。それがもう夥しいんですよね。もうほとんど、もう家族に例えば、そのそれがもういわば氾濫しております。ね、世の中に。
いわゆるそういうような、もう不用になった物の捨て場がないわけですね。燃やすこともできないでしょ。燃やてったらありゃ、何か爆発を起こす恐れがあるそうですね。あんな物まとめて燃やしたりすると。
ですから、結局はその、海に流すといったようなことになる。そこに、いうならその、問題なっておるしお海といったような結果になるという。海が死んでしまうわけです。海の底を、そのビニールとか科学製品でですね、こう(おもて?)しまうんですから、とけもしなければ、流れもせんでしょうが。
これが例えば、自然に出来たものであったらですね、ね、それが、土に化したり、いわば、溶けてしまって、その大地に化してしまうわけなんですけれども。そのこういうものはね、人間の、いや科学的な力で出来たものは、(しぬぐい?)にする恐れがある。というほどに自然と不自然というのは、開きがあるんですよ。ね。
私が、福岡にお話しにいっております時に、そこは、「学?」さんという、大変ご信心の篤い方がおられまして、その人の家にお話に参っておりますと。普通のご信者さんです、の、お家です。けれども、晩のご祈念になるとやっぱ私がお話すると30人ぐらい集まりよりました。
毎、毎日、(でも?)その、近所の人達が集まって来て「学?」さんの話を聞いて、一緒にご祈念をする。「学?」さんがお神酒を吹かれることによって、沢山助かった人達ばっかりなんです。
もう此の方は、お神酒だけで、その人を助けられる徳を持っておられた。もうお婆さんでしたけれどね。そこに、いうなら私がお話に参りますと、日頃そのお婆さんにしかお話が出来なさらん。で私が行くと待っておって下さって、皆さんが集まりなさる中に、初めて、耳の病気で、その「学?」さんの、そういう話を聞いて、そこに時々参って見える、その人は法学師です。の働きを持っておられる、まぁ大学での学者なんです。
私のお話を頂いてから、頂き終わった時にですね、その大坪さんお尋ねいたしますけれども、あなたのお話を頂きよると、もう全然薬も飲みなさらんごたる風ですが。という、こうお話があったんです。
ね、私は、もう薬の方頂かんでも、おかげ頂いておりますから、まぁいわゆる、祈れ薬れじゃなくて、もう祈れ祈れだったわけですね、私の場合は。ね、現在だってやっぱ同じ事がいえます。
ここの(人方?)もそれを言いますね。(?)繁雄さんの場合なんかでも、祈れ薬れじゃなくて、祈れ祈れでいかれたわけですよね。ほんで私そういう風に、その(きゅうよう?)されて、理屈で(きゅうよう?)されまして、もう私それの説明のしようがなかったんですよ。
それで、えー、私そん、そういう時にはもう、その都度都度に神様のご神意を伺わせて頂くという時代ですから、ちょっと待って下さいて、ご神前に座ってからご祈念して。今、こういう氏子が、こういうことで質問いたしておりますが、どういう風に答えたらよいでしょうかと。
というて、お願をさえて頂きましたら、私の方が、シナに、シナに、マントというのがありますです。いわゆるここ辺でいう、酒饅頭の大きいやつです。これをあの、その麹菌を使ってね、えー、いわば薬品を使わずに出来た饅頭なんです。
ははーこれだなと私は思わせて、それで私はあの、そのことを祈り、あなたの仰ることを神様にお願して、お伺いさせて頂いたらですね、普通の、あの薬で作ったお饅頭と、んー、あの、そのお饅頭をね、頂いたんですよと。私の、シナに、おる(時の時分?)に頂いた、この酒饅頭ですね。いわゆるマントを頂いたんですが、ていうたら、向こうの、その方がいわれるんですね。
やっぱりその、饅頭でもね、ふくれるためには、ソーダやら何やら使わにゃ出来ませんですもんね。ちいうてこう言われるです。ね、けれどもその、そのマントはそうじゃないです、(ジュース?)やらソーダを使うちゃないわけです。
いわゆる自然の、やはり発酵力を持って、発酵させて作るお饅頭なんです。ですから、私はそのことを申させて頂きましたらですね、なかなか酒饅頭は風味も良いし、味も良いでしょう。
同じ饅頭が出来てもですね、自然のは、そのように違いが出来てくるわけです。自然の働きというものを受けるということはね。ですから、本当のことを分からせて頂いたら、もう祈れ祈れでい、いくが一番おかげは早い。
ね、だからこれは、病気とか怪我とかという時、まぁそういう風に教えて下さったんですけれども、最後に祈れ薬れにするから、おかげにならんと断言しておられるところをですね、私は、おかげにならんと断言しておられるところを、例えば今のような説明では分からない事になります。
ね、医者を先にしたって、ようなっとるじゃないか。信心のなかもんでも、どんどん病院で、入院して、退院して帰ってきよるじゃないか。おかげ頂いておるわけ。だからそういう意味のおかげではないと、いうここでは。
今日私ご祈念中に頂きますことがね、あの、★山の水車小屋ですね。水車がずっと限りなしに流れてくるその水の、勢いで車が回っておる。水車の下には勿論この、ね、麦を粉にしたり、お米を精白したりしておるわけですね、水車では。
そういう情景と、次には、今頃はあんまり見かけませんけれども、昔は踏車というのがありましたよね。たんに水をかける、この、かる、こうね、風車のようなあれを人間の力でこう踏んで水を上げるやつなんですよ。ふん、踏車と私の子供の時いっとった。
人間が踏んで、水をくむ車が、あの、いわば水車は水車でも、人間の力でこぐんです。それ、そういうことを頂いておって、こりゃどういう意味だろうかと私は思うてです、思うておりました。
そして、ただ今御理解頂きましたら、この47節を頂くのです。はなーなるほどこれで、これならなるほど薬れ祈れにするからおかげにならん、と仰る意味がよう分かってまいりました。
ですから、この祈れ薬れということをですね。例えば必ずしも、病気、病気ということだけじゃない。ね、もう一時が万事のことにね、様々な一つの難儀な問題といったような場合でもです。ね、お取り次ぎを頂いて、いわば、お願をしていくと。
ね、例えば金が足りんなら、金が足りん。あっちこっちもう金策しまわって、(かに?)回っておいて、それでも出来んけん神様にお願にくる、といったような事にもなるでしょうね。
これはどういう事かというとですね、んー、人間の力でこうやって踏んでおる、それをもし踏まにゃ、踏み止めたらどういうことになりますでしょうが。水がたまってしまうでしょう。ね。
忙しいから、家業の行だからと。とまぁ、あー、湧昇、いわば悪用する。悪用するというと、まぁ自分の都合の良い方につけて、ね、神様のことを後からにする。自分の用を先にする。それでも修行だとこう思うておる。一生懸命努力する。さぁ今日はお月次祭じゃけども、大祭じゃけれども、忙しいというて、お参りせん。お願はしよる。
ほりゃその人の(たまだ?)ぐらいに努力はしておる。けれど、もしその人がですよね、なら踏み止めたらどういうことになるでしょう。ね、例えば( ? )さんがころっと死んだらどうなるでしょう。後はげっすりの穴になりましょう。ね。
ところがです、ね、もう限りなく受けられるおかげ。限りない流れの、そのお水によって、限りなく、ね、それこそ、山中で(ひとりこみつく?)あの水車です、ね。ほっておいても、(せいりゃく?)きれいな米になっていきよる。限りなしに頂けていける。
ね、自分の心を(いでさえさえする?)もう俺も(いれさえすれば?)からそこ、せ、何時までも限りなく(せん?)働けておる。ね、いわゆる限りなくままになっていけれる基がそこに出来ていきよる。
ははー、薬れ祈れにするからおかげにならんと仰るのは、なるほどこれじゃおかげにならんのだ。その人一代だ。例えでいうならば。ただその人が一生懸命、雰囲気で努力しておる時だけだということになるのです。
ね、また、ここの例をとりますとね、小倉の初代です、桂先生が仰っておられますように、ね、「親に孝行して、神に不孝をし」ね。「親に不孝をしておる氏子がある」と仰る。「神に孝行して、親に不孝をし。親に孝行しておる氏子がある」と。ね。
なるほど親は大事なものだと。孝行しなきゃならない。というて、親に孝行して、ところが神様の方には不孝しておる。ね、これは丁度、水車を踏んでおるようなもんじゃないでしょうか。
自分が撫でたり出来て、撫でたりさすったり出来ておる間は、はー、家の息子がもんでてくれます、さすってくれますというて、喜びましょう。ね、それは丁度、水車を踏んでおる時だけは、水やら届かんから、親孝行のごたるけれども、それでは、けれども永久にちゅうか、永遠にっていうか。本当の親の喜びをかうことは出来ないということなんです。
ね、けれども、なら「親に不孝をし」ということはね、家の息子はもう神様、神様というて、というて、いわば神様第一主義にならせて頂くという、ね、親に、「親に不孝をし、神に孝行をし」そして後にです、「親に孝行をしておる氏子がある」。この氏子、この親孝行ならもう限りがないのである。
それは、山の谷川の水を引いて、水車を回しておるようなおかげなのです。ね、その、一つの実例は、私であります。ね。なるほど親は世界中で一番、いわば大切な人である。誰よりも彼よりも一番大切なの。ね、その世界中で一番大切な親のいうことでもです、ね、神様の仰せにはそむかれませんから、親のいうことにも聞かれない場合がある。というのが、私の生き方じゃったんです。
ね、家内の場合でも同じ事がいえましょう。何時も申します、ね。世界で、さい、幸いの家内でありましてもです、ね。親を粗末にどん扱うごたるならば、俺は何時でもお前とは別れれるぞ、というその中心が違う。ね、そこに例えばね、そして後にとこう仰る。そして、後に親に孝行をしておる氏子があると仰るように、ね、親を大事にし続けることが出来、撫でたりさすったりこそしませんけれど、また家内を一生愛し続けていくことが出来れるおかげを私が受けておる。
ようにですね、おかげにならんと仰るのは、そういうことだと。ね。ね、ですから、この祈れ薬れということは、ね、親に不孝をしてでも神に孝行をするということだという事になんです。ね、で薬れ祈れということはです、親を先に大事にして、ね、親を先にだい、大事にして、神様を後にするという生き方。
これは自分が親を撫でたりさすったり出来ておる間はええ。金を自分が持っておる間はお遣い銭もやられる。けれども、金がなくなった、自分の家がなくなったという時には、誰がその親に、を大事にするか。やはり結局は親不孝になると。
はーこれじゃおかげにならんと断言しておられることはっきりしてまいりますですね。そこの辺のところが、分かったでしょうか。
薬れ祈れということはそういう意味なんです。薬れ祈れという事はね、いうならば、今の例でいならば親を大切にして、そして後に神様というのである。ね、祈れ薬れというのは、ね、まず信心を第一主義。神様を第一主義。ね、いかにも忙しいように、ね、お店の御用が出来ないということは、本当にそのしこマイナスになっていきよるごとあるけれどもね、親に不孝をし、後に、ね、親に不孝をし、神に孝行をしておる姿ですから。
ね、例えば自分の仕事ならその仕事がです。ね、限りなし自分がおらんでも、ね、結構限りなく回っていくおかげが受けられる。
私は信心はですね、ここんところを頂いていく根性がなからにゃ駄目だと思うね。またここんところが分かる信心にならにゃつまらんと思う。ね、いうなればここは、神様本意の信心を説いておられるんだとこう思うます。ね。
先にお話しました事は、なるほどこの、ここに、現れておりますように、祈れ薬れということは、体の病気とか怪我とかというような時のことでございましょうけれども。このみ教えの神意という事はです、最後に「祈れ薬れにするからおかげにならん」と断言しておられます。
教祖の神様は、あの、お言葉の中にこういう断言的な事がありますね、やはり。断言したら良いということはですね、そうばってんおかげ頂きよるじゃないか、といったようなもんじゃないです。もう本当におかげにならんのです、それでは。
ね、本当に(しの思いを?)つくっていく以外ないです。ね、いかにも、薬でちょっと作った饅頭はです、早くも出来て、ちょっとまぁ美味しいごとあるけれどもです、それは自然の、ね、働きを得て作った饅頭とをですね、風味が違う。それから勿論その、食べたその後の事も、体にも違うであろうと私は思います。
薬を飲んで良くなったというよりも、御神米でおかげを頂いた。お神酒さんでおかげが頂けれると確信して、それが出来れるということほど素晴らしいことはないもん。ね、こりゃ病気怪我の場合でもその通りのことですけれど。
これをなら、言葉を少し、なら変えて、ただ今私がもうしましたように、「祈れ薬れにするからおかげにならん」と仰るのは、それは丁度、ね、自然の水を引いた水車が回り、そしてそこに、お米が精白されていきよる。メリケン粉が粉になっていきよるというようなおかげ。
ね、薬れの方はどういう事かというと、ね、自分で一生懸命努力はしよるとです。一生懸命に祈る、だから具合が治っていきよるごたるです。けれども、この人が、例えばもし踏み止めたら、もうその場でたまってしまうんだという事です。
してみると、本当に信心、信心なんかてね、信心の徳を受けるということはまた格別ですけれど、ね、本当にお徳を受けられる生き方の信心でなからなければ、折角信心をさせて頂いておるのに、馬鹿らしい気がいたしますですね。
私は今日その水車と、いわゆる踏車とを。どちらも水車は水車ですけれども、頂いてどういう事かは分からなかったけれども、この47節を頂いて初めて「祈れ薬れにするからおかげにならん」という事が、本当におかげにならんという事が分からせて頂いた。ね。
理屈の上では、皆さんが今日私の話を聞いて下さって分かって下さったと思うんです。ですから、それが自分の身の上に起きて来る問題。ね、起きて来た場合。私はこういう祈れ薬れの生き方を取らせて頂けれる。いや、祈れ祈れでいかせて頂けれるほどしのおかげをですね、頂きますところからです、ね、限りないおかげに繋がる信心の徳が身に付いて来ると思うのです。
ね、それは自分がなくなっても、それを回りやまるちう事がない。徳は子孫にも残るものだからです。ね、そういうところの信心を一つ目指したいと思うですねお互い。どうぞ。
梶原 佳行